沢の怨霊の片棒を担ぐ
こんな話がございます。
唐の国の話でございます。
昔、張禹ト申す勇猛な武将がございまして。
旅の途中で、大きな沢のほとりを通りかかりましたが。
一天にわかにかき曇りまして。
昼間というのに辺りは夜のように暗くなる。
今にも大雨が降り出しそうな、重苦しい空模様で。
沢の向こうに大きな屋敷が聳えている。
張禹はそれに気が付きますト。
濡れ鼠になっては面倒だト。
降り出す前に、門へト駆け込んでいきました。
屋敷の門はちょうど開かれておりましたが。
張禹が駆け込んでくるのを見て、下女が驚いて用件を問う。
「軒先で構わぬ。雨宿りをさせてもらいたい」
大男が実直そうにそう申しますので。
下女はとりあえず主人に取り次ぎに行きました。
しばらくして戻ってきた下女は、一転、にこやかな笑みをたたえている。
「どうぞ、軒先とおっしゃらずに中へお入りくださいとのことでございます」
ト、張禹を案内していきました。
大きな屋敷の中を、コツコツと靴音を響かせながら奥の一室に通されますト。
帳をおろした中に、年のころ三十ほどの女主人が、椅子に腰を下ろしてこちらを見ている。
周囲を二十人ほどの下女が取り囲んでおります。
主人はもちろん、みな色とりどりの美しい衣を身にまとっている。
さしものつわ者も、その光景には気圧されまして。
しばらく言葉を失っておりましたが。
女主人はその様子を見てとりますト。
母のような優しい声音で、声をかける。
「どうぞお座りになってくださいませ。何か必要なものがあったら、おっしゃってください」
張禹はもとより、武骨者でございますから。
「飯は食ってきましたが、喉が少し乾いております」
ト、有り体に申し出ました。
主人と下女たちは、少し困った表情で互いを見やっておりましたが。
やがて、下女の一人が湯を沸かし始めましたので。
張禹は、ただじっと待っておりました。
ところがどうも様子がおかしい。
湯の沸く音はいたしますが、湯気が全く出ておりません。
張禹がいぶかしげに眉をひそめますト。
主人と下女たちは再び困った表情で互いを見やる。
ついに、女主人が白状するようにこう申しました。
「お気づきになられましたか。実はわたくしどもは、死霊なのでございます」
張禹は気付いてなどおりませんでしたから。
突然の告白に驚いた。
美しい女主人がさめざめと泣き始めます。
取り囲んだ下女たちが、覚悟を決めたようにこちらを見る。
張禹は豪の者でございますから、死霊と聞いて怯えはいたしません。
ただ、雨宿りをしたつもりで入った屋敷が、死者の館であった不思議に驚きました。
「すると、このお屋敷は――」
「わたくしの墓でございます」
「なるほど」
肩を落として泣いている女主人。
その左右に凛として張禹を見ている下女たち。
やはり、その光景は奇妙なものに思われました。
「わたくしは、任城県の孫家の娘でございます。父は中山の太守を務めた者でございます」
「おお、孫太守の――。存じております」
張禹は懐かしい名を聞いて、にわかに目を輝かせました。
「わたくしは縁あって、頓丘の李氏に嫁ぎました。一男一女をもうけまして、息子は今年で十一、娘は七つになります」
「それでは、可愛い盛りですな。さぞ、お名残惜しいことでございましょう」
女の気持ちを慮って、張禹は言いました。
「はい。そのことでございます」
ト、女が張禹の言葉に、突然頭をもたげました。
「わたくしが死んだ後のことでございます。夫は名を承貴という、わたくしのかつての小間使いを愛妾にいたしました。ことによると、わたくしの生前から関係があったのかもしれません。いや、それはもういいのです」
女主人は、奥歯を噛みしめるようにして言いました。
「承貴は後添えのような立場に収まりますと、わたくしが産んだ二人の子どもを虐めさいなむようになりました。棒で叩いたり、水をかぶせたり、酷い女があったものでございます」
これには張禹も同情した。
「腹を痛めた産んだ我が子でございます。わたくしはどうにかして、あの女を殺してやりたいと思っております。ところが、わたくしは女の身である上に、死霊でございます。とても生きた女の気性には勝てません。そこで、あなたの力をお借りしたいのでございます」
張禹はぞっとした。
ト、同時に、ここへ来る時、下女が笑みを浮かべながら主人の言葉を伝えた理由が、初めて分かりました。
こんな男の現れるのを、この女主人は手ぐすね引いて待っていたのに、違いありません。
「せっかくですが、奥様――」
慎重に張禹は返事をした。
「――私も武人でございます。人を殺めるのが務めとは言え、私怨を晴らすために武力を濫用するわけにはまいりません」
すると、女主人はにっこりと清楚な笑みを返しまして。
「貴方様のお手を汚させるようなお頼みはいたしません。あなたはまず、夫にわたくしのこの嘆きを伝えてくださればよいのです」
「と、おっしゃいますと」
「わたしが死してなお浮かばれずに、我が子の扱いを哀れんでいると知れば、あの女はきっと祈祷や死霊払いを求めるに違いありません。何かと迷信深い女でございましたから。そこで、貴方様は死霊払いができると、夫におっしゃって頂きたいのです」
張禹は大いに困惑いたしまして。
「しかし、私は死霊払いなど出来ませんが」
ト、答えましたのは、どこまでも性質が実直だからでございましょう。
「いいのです。むしろ、出来なくてかまわないのです。何かそれらしい文句を適当に並べてくださればよいのです。貴方様の祈祷に、夫もあの女も神妙に頭を垂れることでございましょう。その隙さえ作ってくだされば、あとはわたくしどもが何とかいたします」
翌日、張禹は沢のほとりの死者の館を後にする。
頼まれたとおりに、頓丘の李氏を訪ね、亡妻の嘆きを伝えました。
すると、見立て通りに後妻の承貴が怯えはじめまして。
夫の李氏に死霊払いを要請する。
張禹がそれを買って出ますト。
二人は、偽の呪文に耳を傾け、神妙に頭を垂れました。
そこへ現れる一群の影――。
沢辺の女主人とその下女たちの群れが。
二人の背後から、近づいてくる。
その様子が張禹には、手に取るように見えました。
二人はもちろん気づいていない。
女の群れはみな、手に手に刀を握っている。
一人ひとりが順々に、恨みを晴らすように承貴を刺す。
グサッ――。
グサッ――。
ズブッ――。
グサッ――。
何も知らない承貴は、そのたびに苦痛で顔を歪ませます。
最後に、女主人がひときわ大きな剣を振りかざす。
エイッと力任せに振り下ろしますト。
承貴は声もなく、その場に倒れてしまいました。
驚いた李氏が抱きかかえますが。
すでに承貴は息をしていない。
しかも、血も流れず傷跡も残っておりません。
張禹はどこか後ろめたい心持ちで頓丘の李家を去りまして。
再びかの沢を通って帰路に就きましたが。
すでに死者の館は姿を消しており。
代わりに五十匹の反物が、まるでお礼のように沢のほとりに置いてあった。
武者が亡魂に祟りの片棒を担がされるという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(六朝期の志怪小説「雑鬼神志怪」ヨリ)